やまめに学ぶブナ帯文化

5.生みの苦しみ

 思えば、ヤマメと遊んで育ち、ヤマメの養殖に取り組んだり、地域起こしでスキー場を発案して住民運動を起こしたり、スキー場の開発で大被害を被ったり、こうした喜悲劇は、考えてみればすべてブナ帯に起因したことである。ヤマメもブナ帯の生物であるし、スキー場も基本的には温暖多雪のブナ帯で発達したスポーツである。私たちは、ブナ帯の原理で生かされているのだと思えるようになった。それから、シンポジウム等を開催して地域ぐるみで学びその情報を発信しようと考えた。

 1992年秋、シンポジウムの準備を始めた。テーマは「地域の光の創造と発信」。講師にはエコノミストの長銀総合研究所理事長の竹内宏氏(当時)、地域づくりの視点から三重大学助教授の後藤春彦氏(当時)、地域おこしの全国ネットワークを持つ山梨県庁の鈴木輝隆氏などをお招きしてシンポジウムで意見をぶっつけてみようと思った。会場は、標高1,600bのブナ林真っ只のスキー場ゲレンデ。テントを張って設営することにした。

 そんな準備をしていたある日、助役さんから「ちょっと相談したいことがあるから役場まできてくれんですか」と電話があり出かけた。1992年10月7日のことである。午前8時30分、通された部屋は、役場で一番広い第一会議室であった。席について見回したところ、正面に町長、助役、スキー場所長、右側に関係各課長、左側に町議会議長と議員。町を代表する首脳クラスの面々がずらりと並んでいた。いつもと違う雰囲気を感じた。

 まずは、町長さんが口火を切られた。最初にマスコミへの対応について、ついでシンポジウムへの注文である。当時のメモには以下のような記録がある。

 ○先日、某テレビの報道番組でスキー場から濁りが発生し、養魚場に多大な被害があったと報道された。○某新聞には、スキー場は秋本がつくったような記事が書いてあった。スキー場は町がつくったのである。○片方では、スキー場をつくったようにいい、一方ではスキー場から被害があったという。被害があったことはしゃべるが、町が援助したことはなんにも言わない。○マスコミに養魚場の被害のことはしゃべるべきでない。しゃべると国有林の保安林解除などの協力がとれなくなり、国や県からの援助が受けられなくなる。

 ○シンポジウムではスキー場の問題や原生林伐採のことをしゃべるべきでない。スキー場に悪いイメージを与える。○今、九州ではブナ林を守る運動が起きている。自然保護団体と結託してこの運動に加担しているのではないか。○ブナ林は、お金にならないから経済林として人工林に転換したのだ。これは国の方針である。国の方針に反する言動は地域のためにならない。・・・・・等々である。

 ブナ帯文化を説明しようにも聞いてもらえる雰囲気ではない。何分にも1対数十人、町の幹部全員に対してこちらは1人である。反論する気力もなく只悔し涙のみであった。濡れたハンカチを握りしめ「もうシンポジウムは止めよう」と席を立った。一度は決心したがやはり開催した。以後7回もシンポジウムを続けることになるがそこから霧立越の発想につながった。最近、当時の町の幹部が「あの時ブナを掲げたスキー場にすれば良かったと今にして思う」とこっそり呟かれるのを聞いて心に明かりが灯ったような気がした。

次ページへ